幻色江戸ごよみ(ISBN:4101369194)

宮部みゆき新潮文庫
天保の江戸を四季折々にたどる怪異譚12編。

岡っ引きは顔を上げ、親父と目をあわせてにやりと笑った。
「俺だって、毎年神無月にただ一度だけ押し込みを働いて、あとの一年はなりをひそめている――そんな律儀な賊はいったいどんな野郎だと、不思議でしょうがねえんだからな」


(中略)


男は、医師の言葉に、育ててみなけりゃわかりませんと答えた。お産で命を落とした女房に、俺は約束したんです。だからどれだけ金がかかってもかまわねえ。高価い薬も使ってくだせえ。先生のできるかぎりのことをしてやっておくんなさい――


(中略)


「そうよ、起こっていたどころじゃねえ。あれの前に三件、同じ手口の押し込みがあった。八年前から毎年一度、かならず神無月のあいだに、俺が見たのとそっくり同じ手口の押し込みが起こってる。盗られた金も、いつも五両からせいぜい十両。盗ったら早々に逃げ出すところも同じだ」


(中略)


去年のはまずかった。本当に危ないところだった。今思い出しても、胸の奥のところをぎゅっと締め上げられるような心地がする。向こうがあんなふうに飛びかかってさえこなければ、刺さずに済んだのに。恐ろしかった。あんなことは二度とごめんだ。こういう危ない橋は、やっぱり長く渡れないものかも知れないと、八年で初めて弱気になった。


(中略)


「本当に、早いところなんとかしないとまずい。そいつが本当に人を殺めてしまう前に、というのもあるし、その逆も心配だ。去年はそいつが金貸しの息子を刺して逃げた。でも、今年はどうなるかわからねえでしょう。そいつが刺されるかも知れない。たとえ今年は逃れても、この先どうなるかわからねえ。来年、再来年、何があるかわからねえ」
「そいつも年齢をくっていくんだからな」


(中略)


去年もそうだったように。ずっとそうだったように。おとっちゃんは必ず戻ってくる。そして、月末には赤まんまを炊いて、神様が戻ってくるのを、それでまたこれからの一年を楽しく暮らせることを祝おう。
「じゃ、行ってくるぞ、おたよ」
その言葉だけ声にして呟き、男は家を出た。


(中略)


岡っ引きはまともに親父の顔を見据えた。それから、ぐいと立ち上がった。
「有難うよ。間に合うといいがな」

第十話「神無月」より。
語られるのは怪異ではなく、この世の不条理に抗う親子の哀切な物語ですが、いわく言いがたい余韻の残る短編。